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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第1節 午前中は晴れ [2]




 覚せい剤が絡むような事件に巻き込まれたり、監禁されたりはしたが、それは美鶴が自ら起こした事件ではない。一泊外出はしたが帰ってきたのだ。頻繁に行方をくらましているワケでもないのだし、クドクドと咎める必要はないだろうと思っていた。
 だが、同行者は霞流慎二だった。
 私は音信不通状態になってるけど、美鶴はまだ連絡取ってるのかしら?駅舎の管理をしてる限り繋がりはあるワケだし、なにより携帯借りてるし。
 そこでグルリと部屋を見渡す。
 今朝、起きた時にはもう美鶴の姿はなかった。鞄も制服もあるから、学校へ行ったワケではない。自宅謹慎中なのだからそれはあり得ない。
 ならどこへ?
 キッチンの引き出しに仕舞いこんでおいた通帳は、二通ともなくなっている。美鶴が持ち出したのは間違いない。

「お父さんって、どんな人」
「少なくとも、お母さんみたいないい加減な人じゃないわよね」

 昨夜の娘の言葉に、詩織は思わず笑ってしまった。
 だって、笑わずにはいられない。

「お母さん以上にいい加減な人間なんて、いるワケないもの」

 言ってくれるじゃない。
 ビールを飲み干す。そうして立ち上がり、窓辺へと向かった。カーテンを引く。朝夕は涼しいが、昼間はまだ少しだけ、陽射しが強い。
 天気予報では、午後から雨だと言っていた。だが、それほどの長雨ではないだろうとのこと。秋らしくない。異常気象だと世間が騒ぐ。
 この空の下、どこかで娘がウロウロしている。通帳をもって奔走している姿が目に浮かぶ。
「まったく、手の掛かる娘だねぇ」
 詩織は呆れたようにため息をついた。酒臭い息が、窓を曇らせた。





 空は高い。
 昔から、見上げるたびに高いとは思っていたが、車椅子で生活するようになってからは、一段とその高さを痛感させられるようになった。
 霞流(かすばた)栄一郎(えいいちろう)はその空を見上げ、少しだけ目を細める。
 高級住宅街として知られる、富丘と呼ばれる一帯。その中で、辺りを見下ろすかのような丘の上に建つのは霞流邸。栄一郎はその庭で、めずらしく一人で過ごしていた。
 いつもは必ず一人は使用人が付き従うのだが、我侭を押し通して一人で(たたず)む。
「一時間だけですよ。もう秋風も涼しくなってまいりましたから」
 根負けした使用人の言葉が耳に響く。
 やれやれ、この歳になっても小言を言われるのか。
 うんざりとため息をつき、ポンッと車椅子の肘を叩く。
 もう少しだけ、目を細める。
 なぜそうしたのか、それは本人にもわからない。澄んだ秋空を眩しいと感じたからか。それとも、空の向こうに何かを見つけようとしたからか?

慎二(しんじ)様のお客様ですよ。金本(かねもと)様と山脇(やまわき)様でございます」

 それは九月の初め頃だった。応接へ忘れた眼鏡を取りに戻った時、鉢合わせた。
 あの引き篭もりの孫に来客などあるはずもないと思っていたから、客と言われただけでも正直驚いた。だが驚いたのは、それだけではない。
 別段、珍しい名字でもないが、久しく耳にはしていなかったように思う。だから紹介された時、胸に小さな衝撃が走った。
 歳かの?
 思わず苦笑する。視線を落せば龍胆の蒼が目に映える。
 花になど、興味はなかった。若い頃は目に止めることもなかったし、今とは違って男性が花を手にするのには人目を気にする時代だった。だから花の名前を教えてもらっても、覚えようとも思わなかった。
 遠くを見れば、檜扇(ひおうぎ)が天を仰いでいる。本来はもっと暑い時期に咲くのだが、昨今の気象がこの時期の開花を誘っているのだろうか。
 少し視線をズラせば千日紅(せんにちこう)。たまに訪れる客に花の名前を文字で書いてやると、「あぁ サルスベリですね」などと得意げに読むが、サルスベリは百日紅。訂正されてバツの悪そうに頭を掻く相手の態度を、栄一郎は密かに楽しんでいる。そもそも千日紅は草と呼ぶような植物なのに対して、百日紅は木だ。知っていれば読み間違えるはずもない。
 千日紅と百日紅。そんな名前の植物がある事すら知らなかった。今、この場を見渡せば、秋桜にツルボに女郎花。彼女が見たら、きっと目を丸くするだろう。
 それとも、喜んでくれるだろうか?
 そこで栄一郎は、グッと右手を握り締めた。車椅子の肘が冷たい。
 今さら、私が彼女に何をしてやれると言うのだ?

「金本様と山脇様でございます」

 どちらが金本でどちらが山脇なのか。改めて二人の少年の顔を思い浮かべても、栄一郎にはわからない。わからないのは、どちらの少年にも彼女の面影を見出すことができないからだ。







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